むかし むかし まだ 20代前半の頃に
「青年の船」という 国主催の事業に参加しました
「にっぽん丸」に乗船し
50日間という長期間にわたり
さまざまな船内活動をしながら
オセアニア地方の島々に寄港し
国際交流をするという国の事業でした
全国から集まった若者300人ほどの団員と
船のスタッフや 関係者が乗船していました
出身地 職業 年齢 も ばらばらで
十人ひと組の 班に分かれ
更に 小さなキャビン(船室)には
2段ベットが2個 据え付けられて
4人の団員が 50日間 寝起きを共にすることになります
関東のIさん 東北からDさん 九州から Rさん と わたし
長期間なのに うまくあわせていけるだろうか? 最初は不安がありました
それが・・・
晴海ふ頭を出港した その日から その4人は 不思議なくらい 馬が合いました
グループ長の一人 Iさんは 何くれと みんなのお世話をしてくれて
九州出身のRさんと私は すぐに 打ち解けて仲良くなり
北国出身の D子さんは 私たちが話す九州弁を 早々と習得し
難なく すんなり 不思議なほどに すぐに仲良しになって行きました
狭いキャビンでは 毎日のように
D子さんのカセットから 吉田拓郎さんのフォークソングが流れていました
「隣の町のお嬢さんはが 僕の国へやってきた~」
お陰で 快適で 楽しい 時が流れました
船を降りてからも その曲が流れると あの頃の思い出が
果てしなく続く 広々とした大海原と共に思い出されたものです
下船後 数年は年賀状のやり取りをしていたのですが
10年ほど経ったところから D子さんからの 年賀状が来なくなり
電話もかからず 音信不通になっていました
どうしたのだろう・・ 他のメンバーに聞いても行方が分かりません
これ以上は 入り込むのは止そう
利発で 器用で 頭の良い D子さんの事だ
どこかで きっと 元気でいてくれる ・・と思いつつ
いつも 心の片隅に 引っかかっていました
そして 先日メンバーの一人から
「D子さんが見つかりました!」という 連絡が入りました
連絡が途絶えて すでに 二十年近く経っています
頭の中は整理も付かず 考えもまとまらないままに
教えてもらった携帯番号にかけていました
あ~~ 何と言おう 何から話したらいいのだろう
繋がるのをドキドキしながら 待っていました
呼び鈴が止まり 繋がって・・
「Ⅾちゃん?」「Sちゃん?」
お互いに呼び合った後は ふたりとも
言葉もなく
「うふふふ・・・」「アハハハ・・・・」
ただ いつまでも笑いあっていました
「元気でいてくれて良かった!」
笑いながら 涙がこぼれていました
落ち着いて ぼちり ぼちり 話してくれる 身の上に起きたこと
それは・・・
ある年に 大きな水害にあい 逃げようと家の扉を開けたら
肩まで浸水し 命からがら 逃げ出したけど
家は流され みんなの連絡先や 携帯も一緒に流されて
誰とも連絡がつかなくなったという事でした
そんな大変な思いをしていたなんて 知らなくて・・・ごめんね
けれど すぐに
「あのね いよいよ逃げなくてはと思い 下着だけでもと考えて
風呂敷に下着をまとめて入れて 頭の上に乗せて逃げようとしたのよ
それが逃げている途中で濁流に流されてしまって
私のパンツは行方知らずになってしまった
アハハハ・・・」と
深刻な話を 暗くならないように 私に気を使って
明るく笑いにかえる D子さん ちっとも変わっていない
あたたかい D子さんでした
「いつも あなたの事を思い出しながら 近くのスーパーで
うれしの茶をかっているのよ」と 言ってくれて
後日
ほんの少し 新茶を送ったら
ありがとうの手紙を添えて D子さんお手製の素敵な 手提げ袋と
97歳になられるお母さんの手作りのポーチを一緒に
送ってくれました
長い歳月には 辛いことも 苦しいことも 沢山あるけれど
思いがけず 消息がわかり お互いに元気でいて
うれしいこともあるのだと感じたのでした
佳秀窯HP ↓
https://www.nishiyama-tadashi.com